タダスケの日記

ある弁護士の司法制度改革観察記録

「憂楽帳:司法試験の理念」 - 毎日新聞

社説ではないのでしょうが,司法制度改革について「憂えている」記事がありました。
後半は,ログインしないと見られない記事になっています。

憂楽帳:司法試験の理念 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20161013/dde/041/070/063000c

冒頭で,司法試験合格者が1500人台まで減ったことについて触れ,さらには受験者も減っているとし,その中でも,「弁護士の就職難などを背景」とし「社会人経験者が減っている」としています。

一見,読み流してしまいそうになりますが,社会人の受験者が減っている原因として,「低い合格率」でも「ロースクールの経済的,時間的負担」でもなく,ストレートに「就職難」をあげているのは珍しいかもしれません。

「就職難」ということは,需要に比べて供給過多であることを意味しますから,弁護士の価値が値崩れして収入が低下していることも含意するでしょう。

もう少し考えてみると,大学生(社会人未経験者)にとっても,弁護士の経済的価値の下落は当然ありがたくない状態のはずであり,法曹の道に興味がありつつも断念して他の進路を選ぶ方も多いと思われ,その結果,法曹志願者が激減しているのでしょう。

それに対して,社会人は既に職を得ており,養うべき家族もいらっしゃることも多いでしょうから,多くの経済的リターンが期待できなければ弁護士になるモチベーションがそもそも生じないものであり,大学生に比べても弁護士の経済的価値の下落がさらにこたえていると思われます。

言い方を変えると,ロースクール在学期間と受験期間,さらに修習期間を無給で過ごし,その生活費,学費として多大な出費を強いられ,その上で弁護士としての経済的リターンが期待できないとすれば,現在の職を投げ打ってロースクールへ入学するという選択肢は魅力が乏しいどころの話ではなく,まともな人間であればおよそ選び得ないクレージーな進路ということになるでしょう。

この上,数年間プライベートな時間の多くを勉強に費やさなければならないという時間的拘束や不合格リスクといったデメリットもあるのですから,仮に社会人の友人がロースクールに入学したいと言い出したら,はがいじめにしてでも止めるべきでしょう。


また,本記事は,「現行試験は06年、法知識の詰め込み競争との批判があった旧試験を見直して始まった」と指摘します。

「法知識の詰め込み」なるものが具体的に何を意味するのかよく分かりませんが,例えば某フジテレビの元アナウンサーの弁護士は,その著書で毎日16時間勉強したと表明していますし,彼女でなくとも普通の受験生なら1日10時間くらいは勉強しているでしょう。

私が弁護士になるまで (文春文庫) 文庫 – 2015/1/5
菊間 千乃 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%8C%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%A3%AB%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%A7-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%8F%8A%E9%96%93-%E5%8D%83%E4%B9%83/dp/4167902834/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1476970827&sr=8-1

旧司法試験に比べたら競争が緩くなっているといっても,多くの学費や時間を費やしてロースクールを卒業して(または予備試験に合格して),1年に1度しかない司法試験に向けて勉強するわけですから,多くの受験生は全生活を勉強中心にして全力で準備をします。

この猛勉強が,「法知識の詰め込み」にあたるのか否かよく分かりませんが,基本書を読んだり,判例を勉強したり,過去問を研究したり,模試を受けたりと試験対策をするわけです。
個人的には,旧司法試験と比べて,あまり,というかほとんど勉強することは変わらないと思っています。


「法知識の詰め込み競争」という「批判」とは,論点ブロックの暗記と吐き出しに象徴されるような,思考を伴わない丸暗記への批判を意味しているのだと思います。

しかし,知識とは類型化,一般化されて体系化されるものであり,予備校が,一般化できる判例の規範部分を抽出してまとめて受験生がこれを記憶するのは,ある程度必然だと思います。

判例の規範部分といった具体的な記述ではなく,より抽象的な,事案分析の方法や具体的事案の分析方法も,知識である限り予備校が類型化するでしょう。

それ自体は,なんらネガティブなことではないと思います。

逆に,類型化できないもの,例えば,芸術家の絵を描くセンスなどのようなものがあるというのであれば,わずか2〜3年の法科大学院教育ですべての学生に習得させることなどできないでしょう。


余談ですが,憲法の採点実感によると,「あてはめ」と書くと怒られて,「事案の分析」など別の表現で書かないといけないそうです。
また,「思うに」という表現は,一般には使わない表現であると怒られていました(探せば採点実感のどこかに書いてあります)。

私は,これらの指摘を心の底から本当にくだらないと思っていました。

サービス残業をバリバリにさせる違法会社でもなければ,自分や事務員の執務時間・労働時間は有限の貴重なリソースであり,多くの仕事に優先順位をつけて重要なもの重点的に時間を使って,全体の生産性をあげなくてはなりません。

「重要な仕事をやる」というと聞こえがいいですが,裏を返すと「重要でない仕事は積極的に『やらない』と決断する」ということでもあります。

「あてはめ」と書くか書かないか,「思うに」と書くか書かないかなどは,法曹養成の本質とは関係のないどうでもいいような話であり,明らかに「積極的に『やらない』と決断す」べき指摘と感じます。

他にも重要なことはあります。
例えば,現在は公法系(憲法行政法),民事系(民法,商法,民訴),刑事系(刑法,刑事系)と,大大問であった時代のままの大雑把な分類で成績通知もこの3分類になっていますが,弊害が大きいとして大大問はやめて各科目ごとの出題に変更して長いのですから,通知等も科目ごとの分類にして受験者にわかりやすいものにすべきでしょう。

このような,司法試験を良くする施策はいろいろあるはずなのですが,司法試験委員のやることを見ていると,いかにも仕事のできない人間を見ているようで歯がゆい気持ちにさせられます。


また,”旧試験の反省の上に立った”という現行試験は,それほど良いものなのでしょうか。
私には,問題なしとは見えません。

具体的には,現行試験では,択一の配点が論文よりかなり低かったり,論文6科目(旧試験)が8科目(旧試験+行政法+選択科目)となっているので,見方によっては現行試験の方が試験テクニックが重要になっているという印象があります。

つまり,択一の配点が低いこととの関連では,例えば,択一の勉強は足切りにあわない程度にあまり力を入れすぎないようにして,極力,論文の勉強のウエイトを高めるとか,科目数の関連では,旧試験に比べて33%も科目数が増えているので,旧試験に比べて全科目を薄く浅く要領よく試験に出そうなところを見ていくことが有効になります。

同じ法的素養,可処分時間を持ったAさんとBさんがいたとして,Aさんが現行試験の特性を意識して対策を立てる一方で,Bさんがこうした試験の特性に無頓着だとしたら,本試験で大きな差がつくのです。合否を分けることもあるでしょう。

他方,旧試験では,択一と論文が,間を2か月空けた別日程でしたし,択一も難関でしたので,択一にも全力を尽くすという正攻法しかなかった気がしますし,論文も6科目しかないので,受験生はみな全科目を十分に回した状態でガチンコ勝負をしていた,という印象があります。
強いて言えば,択一後に見返せる一元化させた論文の資料を作成しておく,くらいのテクニック的なものはありましたが,常識的に誰でも思いつくようなものであり,試験の特性を利用してライバルに差を付ける,というほどのものではありません。


この記事は,最後に「「多様な分野から多彩な人材を」という当初の理念は残ってほしい。」とつぶやくように終わっていますが,社会人受験者の減少は就職難が原因と同じ記事中で分析しているのですから,就職難を解消すれば「多彩な人材を確保できる」と考えるのが論理的でしょう。

就職難の解消とは,すなわち供給過多の解消であり,そのためには(1)需要を増やすか(2)供給を減らすしかありません。

(1)需要を増やすことについては,ロースクール推進派が必死に訴えていることですが,ほとんど進んでいないように見えます。
そうであれば,(2)供給を減らすという選択肢しかないでしょう。

そうなれば,大量の法曹を養成する必要がなくなり,ロースクール強制の必要もなくなって任意化すべきということになり,ロースクールの赤字補填が不要になって修習生の給費制も復活します。
こうして,ロースクールの経済的,時間的負担がなくなり,修習中の生活費の実質的な負担がなくなれば,法曹人気は回復し,法曹志願者もまた回復するでしょう。
資格取得コストが下がれば,リソースの乏しい社会人も司法試験に挑戦しやすくなります。

特に旧試験のような体制に戻すと意図しなくても,ドミノを倒すように自然と旧試験に近い形に回帰するのです。