タダスケの日記

ある弁護士の司法制度改革観察記録

「司法試験見直し 抜本改革につなげよう」を見直そう(毎日新聞2015年10月23日)

ロースクールに関する大新聞の社説がひどいのは,今に始まった話ではありませんが,相変わらずお粗末なものがありましたので見に逝って参りました。

社説:司法試験見直し 抜本改革につなげよう - 毎日新聞
http://mainichi.jp/opinion/news/20151023k0000m070175000c.html

司法試験の改革は、これで終わりではない。公正さとは別の観点で、見直しが必要だとの指摘が出ている。知識を有するかどうかを問う内容が多いため、大学院での教育が受験対策に偏っているというのだ。

 2000年代に始まった司法改革では、多様性のある人材が法曹界には必要だと強調された。法律的な素養だけでなく、交渉能力や人権感覚、国際感覚などが求められた。

 他分野で活躍したり、大学で法律以外の勉強をしたりしてきた人が法曹の世界に進むことを期待したものだ。
法科大学院はそのための仕組みとして創設された。

 一発試験でなく、大学院で2〜3年勉強すれば、相当の人が合格できる試験、「養成のプロセス」を大切にし、理論だけでなく実務的な内容も重視する教育を目指すとされた。

 だが、実際には試験合格までの壁は高く、多様性のある人材が挑戦する環境は整っていない。

 現状は司法試験合格率の高さで大学院が二極化し、低迷校の淘汰(とうた)が進む。

 一方、弁護士の就職難もあり、法曹志願者自体が減少傾向だ。

 司法改革の議論の中で、「国民の社会生活上の医師」との表現で、法律家が果たすべき役割が示されたことがある。高齢化が進み、貧困層が拡大する今の日本社会で、その理念は色あせていない。

 法律家の卵に求められる能力をどう試すか。現状の反省も踏まえて、試験内容、選抜方法の見直しを検討してほしい。

公正さとは別の観点で、見直しが必要だとの指摘が出ている

これは,ドコ情報なのでしょうか。
そんなことを言っているのは,ロー未来の会くらいではないでしょうか。

知識を有するかどうかを問う内容が多いため、大学院での教育が受験対策に偏っているというのだ。

憲民刑以外の択一が廃止され,受験生に細かな知識が求められる程度は,かなり低下したと思います。

2000年代に始まった司法改革では、多様性のある人材が法曹界には必要だと強調された

この「人材多様性論」ともいうべき話がよく言われますが,その多様な経歴が,弁護士業務にとってシナジーが生じないと,あまり意味がないのではと思います。

医師資格のある人が弁護士になり,医療過誤事件を扱うなどという例も挙げられますが,それほどハイスペックな人材はごくごく稀でしょう。
逆に,こうした極端な例しか挙げられないのが,「多様性論」には具体的な効用があまりないことを示してしまっているような気がします。

また,弁護士の就職状況・労働条件が悪化する中,ハイスペックな人材が現職を投げ打って,数年を勉強漬けの味気ない日々に費やして,合格率20%台の試験に望むというのは,現実味がなくなりつつあります。

法律的な素養だけでなく、交渉能力や人権感覚、国際感覚などが求められた

現在のカリキュラムの中で「交渉能力」が育成されているようには思えません。
学者教員に,「交渉能力」を育成するようなスキル・経験があるようには思えないです。
せいぜい,実務家教員が個人的な経験に基いて教えられることがあれば教える,というくらいでしょうか。

「人権感覚、国際感覚」についても,そうした専門スキルを育成するような人的資源や方法論が,ローにあるようには見えませんでした。

 他分野で活躍したり、大学で法律以外の勉強をしたりしてきた人が法曹の世界に進むことを期待したものだ
法科大学院はそのための仕組みとして創設された。

他学部出身者がローで学んで力をつけて,法学部出身者に負けずに法曹になる,ということのようですが,
見方を変えると,それって他学部出身者にあっさりと追いつかれてしまう法学部教育が,ものすごくレベルが低いということを意味するのではないでしょうか。

そして,そんなレベルの低い法学部の学者が,ローの学者教員になったからといって,急に覚醒して高いレベルの法曹教育ができるとは思えません。

それよりロースクールを廃止して,法曹になるための拘束・負担を軽減し,劣位にある他学部出身者がやりようによっては法学部出身者と対等に戦えるようにしたほうが,結果として他学部出身者の参入は進むと思います。

 一発試験でなく、大学院で2〜3年勉強すれば、相当の人が合格できる試験、「養成のプロセス」を大切にし、理論だけでなく実務的な内容も重視する教育を目指すとされた。

ちょっと何言っているのか分かりません(byサンドウイッチマン)。

「相当の人が合格できる試験」すなわち合格率が高い試験にするには,合格率が(合格者数÷受験者数)で決まりますから,分子である合格者数を増やすか,分母である受験者数を減らすかするしかありません。

そして,合格者数は政策的にある程度目標値が決められており,最近,政府はこれを1500人以上とすると発表したところです。

「大学院で2〜3年勉強すれば、相当の人が合格できる試験」になればいいなあ,というのは単なる夢想であって,合格者数または受験者数をなんとかすることを考えないと,合格率が高い試験になることはありません。

仮に司法試験の内容を易しくするべき,という主張だとして,そのようにしたとしても合格最低点が高くなるだけであって,それで何かが決定的に良くなるとは思えません。

合格者数と受験者数が同じ程度であれば,試験自体の難易に関わらず,合格率も同じ程度に落ち着きます。
割り算の,算数の範疇の問題です。

受験生みんなが高得点を取るようになり,ケアレスミス1つで順位が大きく下がることになり,運に左右されて適正な選抜という意味ではマイナスになることも考えられます。

一方、弁護士の就職難もあり、法曹志願者自体が減少傾向だ。

 司法改革の議論の中で、「国民の社会生活上の医師」との表現で、法律家が果たすべき役割が示されたことがある。高齢化が進み、貧困層が拡大する今の日本社会で、その理念は色あせていない

「高齢化が進み、貧困層が拡大する今の日本社会で、その理念は色あせていない」の部分は,需要があることを示し,一方,「弁護士の就職難もあり」という部分は,需要がないことを示しているように見えます。

この2つを漫然と並べるのではなく,ジャーナリストであるなら,この一見矛盾する2つの事象の考察をするべきではないのでしょうか。

1つの仮説としては,無償の需要はあるが,それで弁護士が事務所を運営できるような有効な需要はない,というものが考えられます。