タダスケの日記

ある弁護士の司法制度改革観察記録

「司法試験 大学院教育とつなげよ」中日新聞2012/9/26

改革すべきは、むしろ、司法試験そのものにある。短答式と呼ばれる試験科目も増え、暗記する知識が多くなっている。論文式試験も質問範囲が広く、質と量もレベルが高すぎると指摘される。
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2012092602000083.html

これには,ある程度賛成です。

下位合格者の一部に,著しく能力に疑問符が付く者がいることの要因の一部が,試験範囲が広すぎること,また試験で問うているレベルが高すぎることだと考えています(私見)。

試験の範囲が広すぎることが,なぜ問題か


どういうことかと言いますと,あまりに範囲が広いので,能力のある人が,この範囲を十分に学習できないことが生じる一方で,能力のない人でも,この範囲を何とか学習できれば,司法試験でいい勝負ができます。
(広い範囲を学習し終えることも,1つの能力ではありますが)

つまり,司法試験の結果と,受験者の能力とが,比例しないことが起きうると考えています。

逆に,極端な例を考えて,短答式,論文式とも,憲民刑の3科目だったとしたらどうでしょうか(思考実験)。

択一の合格点は,現行試験よりも満点に近づき,論文のレベルも高いものとなります。
範囲が狭いので,能力の高い者は,後から勉強を始めても範囲を学習し終えることができるので,何年も前から勉強している能力の低い者と対等な土俵で勝負して,その能力差によって勝つことができます。
一方,能力の低い者は,何年経っても,この試験の高いレベルをクリアすることができません。

試験で問うているレベルが高すぎることが,なぜ問題か

「試験で問うているレベルが高い」ということは,「受験者の答案のレベルが高い」ことにつながりません。

司法試験も結局は相対試験なので,難しい試験に対し,(出題者が想定するよりも)低いレベルの答案同士で受験者の勝負がなされているだけです。

こういう場合,普通に勉強していても,受験生レベルとしては到底正答の確信が得られない問題が出て,受験生としては仕方がないので「エイヤッ」と書いた答案で競われます。
つまり,ギャンブル的要素が強まります。
こうなると,試験の結果が,能力に比例しない場合が出てきます。
(もちろん,一部のスーパーな人は,それすらも超越して確信を持って正答することはあるでしょう)

また,参考までですが,試験の難易度が極端に低い場合も,試験の結果が,能力を反映しない場合が出てきます。

つまり,多くの人が満点近くの得点をするので,ケアレスミスの多寡で勝負が決まります。
ケアレスミスの多寡が能力なのだ」と開き直ることもできますが,何を審査するどういった試験なのかということとの関連で考えるべきなので,ケースバイケースでしょう。

 法科大学院では、幅広い教養を身につけさせる法曹養成をめざしている。実務教育を重視したり、先端展開科目という、司法試験とは直接かかわらない法律や科目を教えたりしている。
 だから、司法試験も一定レベルの法律知識のチェックを受けるだけで、合格させる仕組みにしてはどうか。医学部で真面目に勉強すれば、おおむね医師国家試験に合格できる。それと同じように、本道たる大学院で真剣に学んでいれば、おのずと法曹人になれる試験制度にすべきだ。
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2012092602000083.html

一方,こちらは賛成できません。

「先端展開科目」と言いますが,抽象的に言うのではなく,具体的に考えるべきです。
教室に座って授業を受けて,期末試験で不可ではない点をとって,それがどれくらい人間形成にとって役に立つのかは疑問です。
一般論としては,大学の教養科目以上でも以下でもない気がします。
(例外的に素晴らしい授業がある可能性を,まったく否定はしませんが)

実務教育については,早く実務に出て,授業と同じ時間を実務を経験する方が,効果が高いでしょう。
あえて,合格するかしないか分からない学生を集めて,手間と費用をかけて法科大学院で教えるメリットが見い出せません。費用対効果が悪すぎます。